世界遺産『飛鳥・藤原』登録を目指して その関連資産群とは?

2025/10/15

世界遺産 飛鳥・藤原



現在、奈良県の明日香村・橿原市・桜井市にまたがる、飛鳥時代の宮都とその関連資産群は、世界文化遺産『飛鳥・藤原の宮都』登録を目指しています。

その関連資産群とは?

5つの宮殿・官衙跡、7つの仏教寺院跡、7つの墳墓、合計19か所からなる遺跡群です。
 【※官衙(かんが)とは、役所・官庁のこと】

その19か所をご紹介します。

5つの宮殿・官衙跡

飛鳥宮跡(あすかきゅうせき)

元は、伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみやあと)と言い、平成28年に、「飛鳥宮跡」と改名されました。
7世紀に建設された4時期(飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮)の宮殿跡です。
645年「乙巳(いっし)の変」で中大兄皇子らが蘇我入鹿を討った歴史の舞台ともなりました。

飛鳥京跡苑池(あすかきょうあとえんち)

飛鳥京跡苑池は、飛鳥宮跡の北西に位置する、飛鳥宮に付属して造園された庭園跡です。
斉明天皇の時代である7世紀中頃につくられ、天武天皇・持統天皇の飛鳥浄御原宮(672~694年)まで宮殿付属の庭園として用いられました。
その後の日本庭園につながる最古の事例として意義づけられます。

飛鳥水落遺跡(あすかみずおちいせき)

飛鳥水落遺跡は、660年に造られた日本最古の水時計台の遺跡です。
時を告げる漏刻台(ろうこくだい)であり、最上段の給水槽から最下段の受水槽に水を流し、最下段の目盛りの上昇によって時間を観測する階段状の漏刻が想定されています。

酒船石遺跡(さかふねいしいせき)

酒船石遺跡は、国家形成の宗教的側面を示す7世紀中頃に造営された祭祀遺跡です。
酒船石の使途は謎に包まれ、酒の醸造などの諸説が唱えられましたが、湧水施設の発見により、その構造や立地などから天皇による国家祭祀遺跡と推定されるようになりました。

藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)

694年、持統天皇は飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)から藤原宮へ遷宮しました。
この宮殿は、天皇を中心とした中央集権体制を体現していました。
京内には仏教による鎮護国家を象徴する2つの官寺(大官大寺・本薬師寺)を藤原宮の南におき、天皇陵や墳墓を京外の南方で宮殿の真南を意識して配置するなど、都市計画においても飛鳥宮からの大幅な発展を示しています。
この宮殿や都城の構造は、後の平城京や平安京の原型ともなりました。

7つの仏教寺院跡

飛鳥寺跡(あすかでらあと)

飛鳥寺跡は、日本で最初の本格的伽藍を持つ仏教寺院の遺跡です。
地下に良好な状態で埋蔵されている寺院跡の遺跡(遺構・遺物)と、地上に表出している中金堂基壇、中金堂に配置されていた釈迦如来坐像(飛鳥大仏)の土壇、中金堂、講堂の礎石などで構成されています。
中国や朝鮮半島から伝わった知識や技術は、日本の国づくりの基礎となりました。

橘寺跡(たちばなでらあと)

橘寺跡は、7世紀前葉に造営された百済式伽藍を採用した尼寺跡です。
文献史料の記述内容や発掘調査から、日本で最古級の尼寺跡であることがわかっています。

山田寺跡(やまだでらあと)

山田寺跡は、7世紀中葉に有力氏族である蘇我氏の一族、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)の発願により造営された氏寺の遺跡です。
649年に石川麻呂は謀反を疑われて、この山田寺で自害し、造営は一時中断しました。
その後、石川麻呂の孫である鸕野讃良(うののさらら)皇女(後の持統天皇)の援助のもと、685年ごろに完成しました。

川原寺跡(かわはらでらあと)

川原寺跡は、7世紀中頃、亡き母である斉明天皇のため天智天皇が川原宮の故地に建立した、天皇の発願による仏教寺院跡です。
朝鮮半島から導入したこれ以前の寺院とは異なり、仏堂を中心とした一塔二金堂式の伽藍配置を持ちます。
のちの文武天皇の時代には、大官大寺、薬師寺、飛鳥寺とともに四大寺に数えられ、国家寺院(官寺)として扱われました。

檜隈寺跡(ひのくまでらあと)

仏教が公認されて以降、天皇が寺院造営を奨励したのにともない、有力豪族は氏寺の建立を進めました。
そのうちのひとつである檜隈寺は、有力渡来系豪族である東漢氏が氏寺として造営を開始した仏教寺院です。

大官大寺跡(だいかんだいじあと)

大官大寺は、藤原宮の東南の条坊内に計画的に配置された国家寺院跡です。
「飛鳥・藤原」最大の寺院であり、特に九重塔は東アジア各国(唐・百済・新羅・高句麗)に共通する国家のシンボルでした。
今は香具山南麓の水田の中に九重塔、金堂の基壇跡が僅かに残り往時の伽藍の存在を示しています。
大官大寺は710年の平城京遷都に伴い移転され、平城京大安寺として現在も法灯を継いでいます。

本薬師寺跡(もとやくしじあと)

本薬師寺跡は、藤原京の西南の条坊内に計画的に配置された国家寺院跡です。
本薬師寺跡は近鉄畝傍御陵前駅から東へ約500mの城殿町の集落内にあります。
金堂、東塔、西塔の基壇跡がよく残っています。
現在、医王院と呼ばれる寺院建物がある金堂跡には、礎石が当時の位置のまま残されています。
また水田の中に土盛り状に残された東西両塔の基壇跡のうち、東塔基壇上には、塔の心礎と礎石が、西塔基壇上には心礎が残されています。
中門、金堂、講堂が南北直線に並び、金堂と中門の間に仏塔が東西に並ぶ双塔式の伽藍配置とその規模は、710年の平城京遷都後の薬師寺にも受け継がれています。

7つの墳墓

石舞台古墳(いしぶたいこふん)

石舞台古墳は、明日香村島庄にある一辺約50mの方墳です。
墳丘の上部は失われて横穴式石室の巨大な天井石が露出しいます。
一説には『日本書紀』で桃原墓と呼ばれる蘇我馬子(626年没)の墓であるとされます。

菖蒲池古墳(しょうぶいけこふん)

7世紀中頃、飛鳥宮跡などが所在する飛鳥盆地から見て西方向に位置する丘陵(甘樫丘)の南斜面に築かれた墳墓です。
墳形が中国の皇帝陵等に採用されていた方墳であることから、有力者の墓であると考えられています。
埋葬施設は古墳時代の横穴式石室を踏襲しつつ、石舞台古墳と比較して墳丘は小規模になっています。

牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)

7世紀後半、飛鳥宮跡などが所在する飛鳥盆地から見て南西方向に築かれた墳墓です。
八角墳という形態は、中国の宇宙観に基づきながら、天皇を頂点とした中央集権国家の確立を目指し、方墳に代わって日本独自に創出されました。
「天皇陵を頂点とする新たな権威」が墳墓によって示されています。

天武・持統天皇陵古墳(てんむ・じとうてんのうりょうこふん)

7世紀後半に築かれた、藤原京の造営を計画した天武天皇と皇后の持統天皇が合葬された陵墓です。
飛鳥時代の天皇陵のみに許されたといわれる八角形の墳形を採用しています。
藤原宮の中軸にあたる朱雀大路の真南に位置し、墳墓と宮殿が一体的に造営されたことを示しています。
天武天皇は古墳時代以来の伝統的な方法で埋葬されましたが、持統天皇は骨蔵器が納められていたことから火葬を基本とする仏教思想の導入を示しており、このことは『続日本紀』の「檜隈大内陵」の記述とも合致します。

中尾山古墳(なかおやまこふん)

中尾山古墳は明日香村平田にある墳墓です。
壁画古墳として著名な高松塚古墳の北側に位置します。
令和2年の発掘調査では、小型の石室を備えた八角墳であることを確認しています。
最上位に位置づけられる八角墳と、火葬で単独埋葬されているという条件から、文武天皇の陵である可能性が指摘されています。
墳丘は一段目、二段目が基壇状の石積み、三段目を土盛りとする特異な形であり、火葬と合わせて仏教的要素が濃いものとみられます。
古墳時代より続いてきた墳墓の最終段階の姿です。

キトラ古墳(きとらこふん)

7世紀後半から8世紀初頭に築造された、藤原宮の南の墓域に位置する壁画古墳です。
東アジア現存最古の天文図を伝える墳墓で、この天文図は、現代天文学の成果から中国で観測されたことが判明しています。

高松塚古墳(たかまつづかこふん)

7世紀後半から8世紀初頭に築造された、藤原宮の南の墓域に位置する壁画古墳です。
古墳は国の特別史跡に、壁画は国宝に指定されています。
壁画には中国の伝統的な思想に基づいた、男女それぞれの人物群像や四神、星宿図(星座)が描かれ、高句麗や唐の影響が顕著に表れています。

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